中津万象園とは京極藩の別邸。
西讃府誌の下金倉村の項に別館一の記載「海濱ニアリ貞享五年九月経営ス、散卒三人ヲ置ケリ」とあることから、貞享5年/元禄元年=1688年を「築庭された年」としています。
西讃府誌|江戸時代後期の天保10年(1839年)より編纂開始。安政5年(1858年)に完成した讃岐国西部の地誌。
京極家の手を離れた後は、民間の所有者を転々とし、中にはあの「鈴木商店」の所有だった時代も。
しかし、どの所有者も、ここを壊そうとはせず、大切に守り続けてきました。
明治にはすでに観光地となり、当時発売されたガイドブックなどにも、「萬象園」の文字が見えます。
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萬象園 丸亀多度津両駅よりやく十七丁六郷村字下金倉の海浜に在り俗に中津公園と号す 貞享五年九月丸亀藩主京極家の築く所にして所謂御下屋敷なり 園内池を穿ち山を築き配するに翠松珍石を以てす 亀島甲石鎧石浦島石傘松鍬形松等其最も珍奇なるものなり 又園内所々に清洒掬すべし亭欄四五あり 欄に凭れば松の葉越しに瀬戸内海の■波に浮ぶ島影を望み白帆の去来するもの朝輝夕陰に映じて美観云ふ可からず 今園は土豪竹田氏の私有なれども数年前より一般に公開して庶人の観覧悠遊に供し近年園外の海濱に廣大なる魚養池及び運動場を造りたれば四季共に曳杖の客絶へず就中夏季は海水浴の好適地なるを以て鉄道院は毎年中津駅なる夏季臨時停車場を設置して浴客の便を図ると云ふ 又此の近海を筆の海と云ふも詳かならず (このあと加藤梅崖の詩)
「この庭園を失くしてはいけない」と富士建設が買い取り、保全へと動いたものの、どのように修復すべきか分からず、手をこまねく年月が続きます。
そのような中、三豊市の紫雲出山の遺跡保全や桜の植樹活動の縁から、日本を代表する文化財庭園の調査修復のプロでもあり、作庭家でもある中根金作氏と出会います。それにより、中根氏の指導のもと、社員及び協力会社が一丸となり、修復が実現しました。